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  1. 小野坂貴之

アタシじゃないの。

三が日最後の昼間、まだ掃除の残る部屋を片付けようと掃除道具を買いに外へ出て、鍋横交差点を南から北へと渡る。渡り切る直前、歩道の上からどんがらがっしゃんと音がする。音の方を見ると、ママチャリに跨ったオバちゃんの、周りの自転車が数台倒れているではないか。オバちゃん、固まったまま動かないので、とりあえず自転車を起こしに駆け寄った。

通りがかった女性と二人で自転車を道路脇に立てていると、オバちゃんがママチャリに跨ったままこう言い放った。「アタシじゃないの。風が強くて倒れたの」。

ギョッとした。確かに風は強く吹いていたし、倒れる瞬間見てないし、オバちゃん付近の自転車が偶然倒れてしまうこともあるかもしれぬが、それを言っちゃあおしまいぢゃないか。だって言い訳にしか聞こえないのだもの。

その瞬間、上京した日のことを思い出す。あれはまだ二十六歳の四月だ。

「後悔せぬよう役者をしよう」と心に決め、香川から夜行バスに乗り、東京に住むひとつ下の弟のところへ。八畳一間なのに「一緒に住んだらええ」と言ってくれた弟に「なんかええ弟やのう」と感謝しつつ、一路アパートへと向かう。

迷いながらなんとか到着した矢先、紙が漏れ出している異様なポストが目に入る。「誰も住んどらんとこなんかいな?」と思いつつ部屋番号を見ると、そこが弟の部屋だった。思わず三度見して確認しても変わることはない。

ポストをあけて調べると、押し固まった広告やら手紙やらと一緒に、大量の水道代と光熱費の請求書が。しかも水道があと数日で止まりそうではないか。「あのボケ何ヶ月ためとんや!さてはワシに払わす気か!都合がええと思うたな!なんて悪い弟や!てか死んじゃう!」

急ぎ近くの水道局を調べ、請求書の束を抱えて駆け込んだ。窓口のにこやかな兄さんが計算してくれている間に耐えられず、思わず言ってしまった一言が「弟がためとったんです」。

ギョッとした。自分の言葉にギョッとした。滞納の言い訳にしか聞こえないではないか。しかも架空の弟のせいにして。信じて欲しくともありゃ讃岐弁しかでてこない。そして、なぜだろう、自分のせいじゃないのに恥ずかしい。

あああ。

そんな悲しい記憶を思い浮かべ、うんともすんともせず沈黙してると、オバちゃんはママチャリを西に向けて漕ぎ始めた。

緩やかに走り去るそのうしろ姿はそこはかとなく寂寥感が漂っていて、それを見つめる私に、どこぞの神さんが「言い訳せずに生きろ」と諭しているようで、身が少しきゅっと引き締まる、そんな出来事であった。

というか、自転車を歩道にもりもり置くんでない。